【告白】私はドエムでした。

マゾって何か知ってます?

知ってるわ、マゾがいたぶられるのが好きでサドがいたぶるのが好きなやつだろ?

はい、たしかにその通りです。

しかし、この話ここで終わっていいんですか?

ふと思ったんですが、人生上どちらが得するか気になりません?

今回は私なりのSとMについて考えてきました。

 

私は周りからMだといわれることが多いですし、結論圧倒的Mでありたいとも思っています。

うわ~、こいつとんでもないやばい性癖なんだなードン引きーさようならー、とか思った人ちょっとまっていかないでください!

マゾのほうが社会的に有利だと最近そう思った理由があるのですよ。

 

まずそもそもマゾとサドって定義は何か?はっきりしておきましょう。

マゾはマゾヒズムの略で作家のレオポルド・フォン・ザッハ・マゾッホという人が由来です。

ある作品の「苦痛に快楽を覚える」青年が登場し、それが由来で定義となっているらしいです。

サドはサディスティックの略で作家のドナティアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サドの名前から来ています。

作中にムチ打ちの乱行をし、「残酷さの中に快楽を覚える人」が登場しますが、それが定義となっています。

 

じゃあなぜ私がマゾのほうがいいのか、それはあらゆる面でポジティブに考えられるからです。

いやいやちょっと話する前に待てや「苦痛に快楽を覚える」が定義なら、そんなこと今まで一度も感じたことないよ。お前と同じように苦痛で喜べってか?無理だわ。

って思ったと思います。

安心してください。私も苦痛に快楽は覚えません。

は?話ちがくね、なめてると埋めるよ?とか思ってるならもう少し話を聞いてください。お願いします。

 

まずそう思ったのはそもそもの定義について考えてみましたが、

苦痛に快楽を覚えるって単純に矛盾してませんか?苦痛と快楽ってあがいても共通点ないですよね?

例えばある日の会社帰り急用で急いで歩道橋の階段を下ったところ、踏み外しそのまま転落し骨折したとします。このとき折れたところは痛いですよね?これはマゾの方でもどう頑張っても快楽にはなりえないものだと思います。

そしてこの後全治3か月と診断され、一命をとりとめました。

このとき「なんて俺はドジなんだ、こんな階段から落ちて骨折なんて、家族にも会社にも申し訳ない。」と思ってしまう人が多いのではと思います。

しかしマゾの方は「いやー、死ななくてよかったー。しばらくこれでいじってもらえるネタができたし、やったった!好きな社員の人もお見舞いに来てくれるしラッキー!」と思っています。

私の中のマゾは、苦痛は苦痛だけどその苦痛の中で、自分のために喜べるものを見つけられる人ことだと思っています。

もちろんもしかしたら私の考えてるマゾを超越したマゾのかたいれば申し訳ございません。

骨の折れた痛みの中のあの新鮮感がたまんねえんだろお!?という方もいたら教えてください。ぜひ対話してみたいです。

一例で話しましたが、このようにどんなつらい場面でも楽しめるって人生楽しそうじゃないですか?

別にサドを否定するわけではないですが、サドの人はどうしてもプライドが邪魔して素直に喜べないし、なんか性格悪いイメージがあって人生損してる気がします。

というよりファッションサドみたいな人は人を見下すのがかっこいいと思って、人をからかいたくなるのは性だから別にいいでしょ、って言ってるように見えてしまうんですよね。

完璧な偏見だとは思いすみませんが、サドでよかったと思ってることがあればコメントください。

というわけで今回はエムのが圧倒的有利という話をしました。

みなさんよろこんでMになりましょう。

正確には逆境の中でも自分のためを探す癖をつけていったほうがいいと思います。

幸せとは今この瞬間に感謝すること

まずもしこの何の変哲もない箪笥裏の綿埃を見つけた程度のブログを見てくれている人がいるとしたのなら心の底からの感謝ついでに謝りたいことがあります。

前回の記事で興味について書くことを宣言しましたが、何を書くかうまくまとめられませんでした。というより、心のどこかに引っかかるような、真実とは違うことを書こうとしてる違和感があったので止めます。本当にすみませんでした。

自分の中で違和感を払拭するような明文化ができ次第書こうと思います。

 

初手謝罪で恐縮ですが、今回は「幸せとは今この瞬間に感謝すること」という話をします。

まず幸せって何だと思います?

お金を稼いで遊んで暮らす。

誰からも束縛されずに自由に暮らす。

結婚をし、安泰な家庭を築く。

他人の心に寄り添って他人を救ってあげる。

これも立派な幸せだと思います。個々人の幸せの観念は違うので、私もこれでいいと思います。むしろ幸せの価値観をしっかり持てているということはそれだけでもすごいことだと思います。

しかし、自分の現在定義してる幸せはタイトルの通りです。

まず自分はこう考えていました。

お金があることが幸せなら、お金がなかったときは絶対に幸せは訪れないのか?

そうじゃろがい!という人もいると思います。

苦難を乗り越えて幸せを手に入れるんだろ。私も最近までそう思っていました。

でも本当はプロセスさえも幸せを感じることができれば幸せなのではないかとかんがえるようになりました。

幸せ=人生の目標

この認識実は間違った認識ではないかと思います。

というのも最近まで私は「どんなときも心に寄り添えるような人になって人の心を多く救いたい」。これが私にとっての幸せだと思っていました。

しかし現実はその幸せをかなえるためどうアクションしていけばいいかわかりませんでした。むしろそれを掲げて満足してるだけで、今は不幸だと嘆いて被害者ずらしていたのだと思います。アクションする気もなかったのです。

そこで今この瞬間の幸せを探すことにしてみました。すると現実はもっと幸せなものであふれていました。今仕事をして上司から知識を聞けたこと。たまたま通った店に立ち寄ったら気になっていたものがあったこと。今この瞬間に死なずに、病気もせずにいられること。自分の考えの浅さに気づき、伸びしろに気づけたこと。それが楽しい、面白いと感じられることで、幸せなのではないのでしょうか?

今は少しずつ変われていると信じていますが、やはり今この瞬間の現状に感謝をするようにしました。自分の心に偽りなく感謝と間違いを認めつたえるようにしていきました。すると今この瞬間で生きていられることは面白いことだと感じられるようになりました。

ならば今やりたいことや成し遂げたいことをやっていくこういう幸せをプロセスに感じられるようになると、結果はどうであれ、人生の幸福感を得られるのだと思います。

 

誰が決める人生の幸せではないですが、ありのままを受け入れてそれが自分のための学びになると考えて、決して心にうそをつかずに生ければ面白い人生になっていくと信じています。

もちろんこれが真実かといわれるともしかしたら間違っているのかもしれません。

これが今の自分の考えですが、また深掘って考えていければと思います。

興味は人生最強の抗うつ剤1

みなさんはこんな経験はないでしょうか?

「なんのために今俺こんな仕事しているのだろう?」

「やべえ、何かやらなきゃいけない気がすればいいけど、何をすべきかわからねえ」

「俺ってなんのために生きているんだろう?」

ちなみに私は半年前までこんなことをずっと考えていました。

そして行動に移さずゲームに勤しんでいました。

(ちなみに隠す必要はないからいいますが、2年もたたずに総プレイ時間2000時間のスプラトゥーン中毒患者でした。仕事しながら1日平均3時間弱のプレイ時間です。スプラトゥーンってのは任天堂のゲームです。)

 

ではなぜ興味を持つことが大切なのか?そもそも興味ってどうやって持つのかを私が感じたことをあるがまま書いていきます。

 

まず興味はあらゆるものに持つべきだと思います。私の周りの仕事ができる人を見てきましたが、興味はその全員が持っていたものだと感じました。

逆に興味を持たずに仕事をしている人は人の顔色を疑って、ただ言われたとおり怒られないように当たり障りのないように仕事をしている人です。そうです私です。

興味を持たないことは言われたとおりにしか動けないので、物事の断片しかとらえることしかできなく、一生抜け出せない狭い世界の上から見下ろしてくる事象におびえて生きるしかありません。そうです。私です。

しかし興味を持てば、ものごとに対する知りたいという疑問が次から次へと湧いてきます。

みなさんも人から興味のない自慢話を聞かされても頭に残りませんが、好きな芸能人やアニメ、ゲームの話を聞かされると、「そういえば次のライブいつだっけ?」「はえ~、この舞台ってそんなところがモデルなんだ」などと会話とともに記憶にしばらく残りますよね。

そういった疑問というのはいわゆる覚せい剤ともいえるぐらい強力です。

まさに仕事のできる人は常に覚醒状態で、人から学ぼうとしてさらに疑問が生まれて覚醒のループに入っていきます。人生を半永久的に覚醒した状態で学んでいくので無関心で無理やり情報を入れた人よりも記憶の定着も早いです。

 

ここまでで興味が疑問という覚せい剤を生んでいることが分かったと思いますので、明日どうやったら興味をもつ思考になるのかを解説していきます。

限界です

今は深夜2時半です。

なぜ更新がこんな時間になったのかというと、ランニングを再開したことに理由があります。

手がかじかむほどの寒さではありましたが、たった2キロほどでめちゃくちゃ疲れてしまった。典型的な運動不足です。

坂道を登るとき久しぶりの運動の負荷に耐え切れなく背中が勝手に丸くなっていきました。急に腰の力が入らなくて、正しいフォームからがくんと崩れてしまう感覚です。

疲れ切った私は習慣の本を読むことをしましたが、全く頭に文が入ってこず、ただ文字を認識して、内容の理解は脳の優先順位から著しく下がっていました。

そして少し寝るかとアラームを10分後にかけましたが、アラームが鳴ってもひざに乗っていた猫のぬくもりとともに寝落ち、日付をまたいで1時です。そしてブログを書いて寝ようとしましたが、パソコンの立ち上がりが遅く、しびれをきらしてスマホで書こうと開いて、気づくと気になってた映画を見始める始末。

原因はもちろん自分の意志にあると思いますが、それ以上に環境やルールを決めていないからです。

個人差はありますが、人の意志力には限界があると思っています。

人は現代でスマホを持っている中ふと気になってしまった情報を何の苦労もせずに1クリックで見れてしまいます。ブラウザの記事ならまだいいのですが、動画はそれが終わるまで拘束され、さらに優秀なAIは見た動画を学習し、さらにおすすめしてくる。無限ループです。

それを断つにはそもそもそのループに入らない根源を断つ必要があると思います。

そもそもその情報を目に入れないことです。

人は一時の欲で行動してしまいますが、他人から見られる場面ではそれを抑制できます。承認欲求です。結局私たちはどうしても人からよく見られたいのです。人は群れで生きていくことを前提とした生き物なので、他人から承認、敵意がないことを感じないと不安なのです。

話はそれましたが、行動としてその承認欲を使って、アプリの使用制限をつけたいと思います。パスワードは親に教えて、今日からのアクションにしていきたいと思います。

約束する行動する

今はじめてブログをはじめます。

まず私は自分を変えるきっかけとしてブログをはじめます。入社して3年も経ってない経験の浅い装置製作のエンジニアです。

もし目を通してくれる人がいれば「そんなの一人でやれよ、帰れ!(?)」と思うはずです。

はい、基本一人でやります。ただの一人の日記帳にしたいと思ってます。

その日の出来事を振り返って、深掘って迷走しながら真意に近づいていき、迷走していきます。

ただもしそれでもこれ以降の更新に万一見てくれる方がいるとしたら、地球一掃レベルの巨大隕石が地球に落ちる確率と同じだと思っており、誰も来ないつもりで書いていきます。

もし見てくれる人がいればそれぐらい貴重なことだと考えています。

ちなみに地球滅亡レベルの隕石は1億年に1度と最近しりました。それだけです。はい。

でもきっと誰かが見てくれていると信じてここでは約束し、行動する機会にします。

大それたことではないですが、小さなことでもいいので日ごろの行動に変化をつけていきます。